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スイスには、世界に名立たる名峰がひしめいています。その中でスイスを代表する山と言えば、マッターホルン(Matterhorn 4,478m)の右に出る山はないと思います。
※ マッターホルンをイタリア側から見た写真はこちら→チェルヴィニア
そのマッターホルンの町ツェルマットは、ヴァリス最大の山岳リゾート地です。
ツエルマットを中心に沢山のハイキング・コースがあります。
一番人気は、なんといっても登山鉄道でゴルナーグラートへ行き、マッターホルン、ブライトホルン、モンテローザ、更に北東部にあるミシャベル山群そしてこれらの山から流れ出る氷河を眺め、ハイキングをしながら麓まで降りるコースです。 疲れたら近くの駅で登山電車に乗れば良いので、体力に応じたハイキングが楽しめます。
途中、逆さマッターホルンが美しい,リッフェルゼーがあります。ここでのんびりと休憩するのも良いでしょう。
マッターホルンを眺めながら下るコースは、贅沢なお奨めハイキング・コースです。

 
 画像クリック→拡大 

シンプロントンネルを抜けると商業・交通の要所ブリークで降り、駅前広場よりBVZ(私鉄)に乗り換えフィスブに向かいます。
フィスブからフィスパ川に沿ってマッタンタール谷に入って行きます。
ブリークよりマッターホルンまでの標高差900mを1時間20分かけ登って行きます。谷を登って行くにつれ、谷の幅も狭くなって行きます。



川の流れは速く、あちこちの氷河から溶けだした水が一気にこの川に流れ込でいます。水の色は白濁色です。石灰岩を含んだ水だそうです。車内のあちこちでは、マッターホルンの登場をいまか、いまかと待ち望んで列車の行く手を見つめています。やはり千両役者は最後に登場するようです。マッターホルンは、終点直前で初めてその雄姿を見せました。



ツェルマット駅前です。
ここは、山岳リゾート地でもあり、アルピニストの登山基地でもあります。ファッショナブルな衣装を着こなしている人、大きなリユックを担いだ登山家等色々な服装の人達が、町を行きかっています。

繁華街はこの駅前に接する1本のみで繁華街の長さは、わずか700mくらいです。商店街は土産物屋,レストラン,ファッショナブルな洋服店等に混じって山岳基地らしく、登山用具を売る店が何軒かあります。



駅前広場には、登山鉄道の機関車が展示されています。車輪には歯車がついており、急坂でも滑らないような工夫がされています。



繁華街には、マッターホルン初登頂したウィンパー等の山男が常宿した「ホテル・モンテローザ」があります。又、町の中央には、山岳博物館が有ります。此処には、マッターホルンに挑んだ先人の記録や遺品が展示されています。かの有名なウィンパー初登頂直後に起きた悲劇の事故「切れたザイル」が展示されています。



ツェルマットから見るマッターホルンは、少しうつむき加減の端正な容姿で佇んでいます。
又、ツェルマットからは頂上付近のオーバーハングを眺めるに丁度良い角度となっています。新田次郎氏はその著書「アルプスの谷、アルプスの村」(新潮文庫)でマッターホルンに出会った感想を次のように記しています。
「マッターホルンは座したる巨人であった。三角頭巾をかぶったまま、 東を向いて端坐した巨人であった。巨人はなにか物憂げでもあった。 ー中略ー  巨人の肩が朝日を受けて光っていた。その肩を越えようとして幾人かの登山家が命を落としたのだ。」



※「アルプスの谷、アルプスの村」(新潮文庫)は、新田次郎氏がアルプスを訪れた時、その土地、土地において見た事、感じた事、出会った人達について紀行文風にまとめた本です。ガイドブック等では得られないアルプスの良さがしみじみと感じさせられる必読の本だと思います。










朝日があたる前のマッターホルン



マッターホルンの朝焼けです。ツエルマットより見た写真です。
ツエルマット方向より見るマッターホルンはスフィンクスに例えると、丁度東方向を見つめているようです















リッフェルアルプよりの眺め。
WellenkuppeとL Epaule。右が雲が湧いているバイスホルン(weisshorn 4,505m)
リッフェルベルグからの眺め。
左がダン・ブランシュ(Dent Blanche 4,357m)中央がOber Cabelhorn(4063m)直ぐ横がWellenkuppe。右がL Epaule
手前の近い真ん中の山がUnterGabelhorn

Gornergratからの眺め。
左がOber Cabelhorn中央がL Epaule 右がバイスホルン(weisshorn 4,505m)

朝靄のなかのマッターホルン(左)とダン・ブランシュ(DentBlanche 4,357m)
Riffelsee(2757m)が見えます。左のRiffelhornに朝日が差し込みました。


逆さマッターホルンがリッフェルゼーに写っています。。





朝焼けのブライトホーン(Breithorn4164m)


Riffelseeとゴルナーグラード(Gornergrat)の中間付近よりマッターホルンを望む。


ゴルナーグラード登山鉄道が見えます。



Riffelberg鉄道駅よりマッターホルンを望む。
建物はRiffelhaus1853(レストラン・ホテル)


ゴルナーグラード(Gornergrat)よりの眺め。



ゴルナーグラード(Gornergrat)近くからのブライトホーン(Breithorn4164m)とクライン・マッターホルン(Klein Matterhorn)


Riffelhorn近くからのモンテローザとゴルナー氷河の眺め。


●「ウィンパーのマッターホルンへの初登頂」については、(「アルプス登攀記」E・ウインパー 新島義昭氏訳 講談社学術文庫 講談社刊) に大変スリリングに興味深く書かれています。また、本書の随所に乗っている挿絵は見ているだけでも楽しいものです。是非一読を、お奨めします。
尚、当ホーム・ページで上記著作よりの引用は括弧書きにて紺色で表示しています

 昔よりマッターホルンは悪魔の住む山として、地元で恐れられていたそうです。
 1860年代スイス周辺の山々がアルピニストにより次々に登頂されて行きましたが、この険しい山は最後まで、人を寄せ付けませんでした。
 この難攻不落の頂きに向け、クライマー達の熱い眼差しが向けられました。
 何人もの山男が挑戦しては巨大な壁に遮られていました。
 1865年7月、遂にウィンパーが初登頂に成功したのです。

ウィンパーは、最初イタリア側のブルイユを基地に比較的アプローチの楽そうなマッターホルンの南西側から何回も挑戦しました。    
しかし頂上近くのコル・デュ・リオンから頂上に通ずる山稜で行く手を阻まれ、その都度退却を余儀なくされて来ました。
ここは、痩せ尾根で岩の端がオーバーハングしており、デブリ(岩屑)が雨のように落ちてくるという難所でした。
ウィンパーと同様マッターホルン初登頂を目指す他のクライマーも、やはりこの難所を突破する事が出来ず挑戦を繰り返していました。ウィンパーは、登攀不可能と信じられていた東側(左側の急峻な壁)より登る事を思いつき実行しました。
しかし、南東山稜の裏側を登って行く途中で激しい落石にみまわれ退却を余儀なくされました
そこは落石が起き易い地形と地質だったのです。ウィンパー は、この東側から登るルートを諦めざるを得ませんでした。
1865年7月ウインパーは、マッターホルン東壁から登攀の機会をうかがっていましたが、F・ジョルダーノを中心としたイタリア隊がイタリアのトゥールナンシュ谷のガイド達を先導役に南西稜からマッターホルンをアタックすると言う情報が入りました。
そのガイド頭は、トゥールナンシュ村(イタリア)のジャン・アントワーヌ・カレルで、マッターホルン南西稜からの登頂を目指す多くの登山家の中で、その技術力、精神力からして最も頂上に近い場所にいると思われている最高実力者です。
この情報を聞いたウインパーは慌てました。マッターホルンへ向って行く一行は、トゥールナンシュ村の選りすぐられた名ガイド達が先導しているのです。
マッターホルンへの初登頂をイタリア人に奪われてしまいます。

1865年7月13日午前5時半マッターホルンを目指し一向8人のパーティがツェルマットを出発しました。
一行は、クロ(ガイド頭)、ペーター(ツェルマットのガイド)、その息子2人、フランシス・ダグラス卿(2日前にブルイユで知り合ったイギリス人で経験豊かな登山家)、チャールズ・ハドスン(出発前日たまたまウインパーと同じ宿に泊まり、同じ翌日にマッターホルンを目指し出発する予定であった為、合流する事と成った登山家)、ハドウ(ハドスンの友人、登山歴が浅い)、そしてウインパーのメンバーです。
このように前日に偶然の組み合わせでパーティが編成されました。そして運命の登頂は始ったのです。

第1日目は、ヘルンリとマッターホルンとを結んでいる山稜づたいに登っていきました。
そこから尾根を外れて、岩棚を伝いながら東壁へ向かいました。そして麓からは急角度の為、登攀不可能に見えていたあたりが、比較的やさしい地形である事がわかりました。
翌日は、順調に高度を稼ぎ、ツェルマットから眺めるとオーバーハングとも見える部分の下を通り、北壁へ取り付きました。
北壁に登ると様子が変り、ルートは難しくなってきました。
「ハドソンは、誰の手助けも借りずに登っていったが、ハドウは、 絶えずだれかに手を借りる必要があった。」(「アルプス登攀記」・講談社刊)

頂上近くなるとイタリア人一行が先に頂上に着いているのではないかと不安になりました。見渡したところ頂上に誰も登った形跡は有りません。
遂にマッターホルンは、人類に征服されたのでした。
「輝かしき生涯を圧縮したような一時間」(「アルプス登攀記」より・講談社刊)が過ぎ、下山の準備にかかりました。 悲劇はそのあとに起こったのです。


全員が一歩一歩、注意深く、確実に下降していたのですが、突然運命の事故が発生したのです。「クロがハドウを少しでも安全に降りられるように、ハドウの足を確かな足場に乗せ終えた後で、自分の体の向きを変え、今度は自分が1歩か2歩下降しようとしたところだった」「その瞬間に、ハドウが足を滑らせたのだ。そしてクロにぶつかり、クロを跳ね飛ばしてしまったのである。」(「アルプス登攀記」ウインパーより・講談社刊) そしてロープで結ばれたクロ、ハドウ、フランシス・ダグラス卿が一瞬のうちに次々と氷河めがけて落下していったのです。
クロの叫び声を聞いたとたん、老ペーターとウインパーは、一瞬岩に足を踏ん張ったのです。ところが、フランシス・ダグラス卿と老ペーターとを結んでいたロープがプツリと切れてしまったのです。
「ぼくらの仲間たちが、(中略)そのまま一人ずつ視界から消えていった」(「アルプス登攀記」ウインパーより・講談社刊)
後で、分ったのですが切れたロープは、三本持参したうちの一番弱い、古いロープでした。このロープは、お互いを繋ぐロープではなかったのです。
そして、この弱いロープは遭難者と生還者との分かれ目になったのでした。この事は、後になって重大な問題となりました。
その後、色々な憶測と疑惑が飛び交う事となって行くのでした。
この切れたロープはツエルマットのメイン・ストリート沿いにある山岳博物館に当時のまま保存され、展示されています。確かに私達素人が見ても「細いロープ」だと思います。
翌朝、捜索隊がツェルマットを出発しました。そして氷河の頭にある雪原の岩壁の一角に墜落していったクロ、ハドウ、ハドスンの遺体を発見しました。
しかしフランシス・ダグラス卿の姿は見当たりませんでした。

山仲間が見守る中ハドスンとハドウの遺体はツェルマット教会の北側に、ミッシエル・クロの遺体は南側に埋葬されました。
そして、マッターホルンは登攀不可能な山という伝説は消え、以降幾多の人達が頂きに立つことになるのです。

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